『走れ!ケー100の青春』あとがきにかえて

高石朝夫/佐賀邦夫

 ある友人から、
「この本にはなぜ後書きとか解説がないんだ、読んでいてもわかりにくい」
とのお叱りを受けました。

ハードカバーの単行本ならば、そのような配慮も出版社側にはあったでしょうが、原稿の枚数が増えるといい顔をしてくれないようでしたし(原稿の直しを入れる度に枚数が増えたため、当初定価650円で計画されたものが777円となったのもそのためのようですが…)、校正回数にも制限があり、このような仕様になったのも心残りではあります。

 本来ならば、ペンネームではなく本名で発表すべきとのご意見もございましたが、完全な意味でのドキュメンタリーでもなく、当時の現場に張り付いた克明な記録というわけではありません。

監督が話されていたこと、スタッフから聞いた話などから、多分こうであろうとの仮定の中で書き上げたフレーズも多く、本作品は若き時代にケー100の制作に関わった私たち全員の汗と涙の記録に多少味付け、佐賀邦夫はまとめ役。 個人の作と銘打つには何やら面映ゆくもあり、また、地名や一部の人物名を除き登場人物ほかを仮名としましたので、作者名もいっそ仮名で…とした次第です。その点はお許しいただきたいと思っております。

それでも執筆中は、自分があの時代に戻っているような気がしていました。


 又主人公がなぜ「高石朝夫」でなく「寺島夏夫」なのか…その件に関してはまだ誰にも公表してい ませんが、当時のCAL関係者ならば判っているとは思います。

寺島は私の三年ほど後に企画部に入社した新潟出身の映画青年で、酒好きの気が合う仲間で、私が会社を辞めて一年ほどたったある日の深夜、アパートに帰る途中で環七の路上で泥酔状態で寝込み、車にひき逃げされたと聞いている野人のような男です。

夏夫は、TBSサービスという水戸黄門などTBS 番組の再放送に関して、番組販売の窓口となってくれていた気の合う得意先の友人でした。
その彼もくも膜下出血で一命は取りとめたものの、言語障害 となりかなりあとまでリハビリをつづけたりしていましたが、こちらも テレビ業界を離れてしまったものですからいつの間にか年賀状のやりと りもなくなってしまいました。

スタッフばかりでなく、そんな友人たちへの思いもあり、主人公を寺島 夏夫にした次第です。



 さて、振り返ってみれば、「走れ!ケー100」と言う番組は非常に不思議な番組だったような気がしています。

 視聴率が20%以上の番組ならばテレビ放送史にも記載・解説されますが、その水準に達しない番組は残念ながら、よほどの話題性でもない限り番組名すらも記載の対象とはなりません。ケー100もその運命にあり、その上、ケー100が目指しドラマを展開した大夕張も、今や無人の荒野。

夕張市の衰退とシュパローダムの完成と共にダムの湖底に沈み、人々の記憶から地名さえも消えようとしています。その共通する悲しみと無念さをなんとか文字として残しておきたい、その思いがこの一冊になったのです…と、それだけはお伝えしたいと思っております。

幸いにも当時番組を試聴されていたファン諸君が、今もなお熱烈に応援のエールを送ってくれる上に模型まで作ってしまうなど、これを企画した者として、とてもうれしく思う次第です。

 また、あの当時はNHKが内幸町から代々木の放送センターに移転し、宮益坂上の安田ビル8階にあったC.A.L.制作部の窓から日ごとに輝きを増す放送センターの窓の灯りを数えながら、民放の低予算作品の悲哀のようなものを噛み締めつつ、でも我々は頑張るんだ…と、歯を食いしばっていたことも確かでした。

勿論、NHKの作品も予算は同じようなものかも知れませんが、やはり親方日の丸と町場の独立プロダクションの力の差はあまりにも違いすぎます。
そのあたりの思いも多少は味付けにいれておきたい…原稿を書きながらそうしたことも思ったりしていました。



 企画を立て始めたのは放送決定の3年ほど前のこと。 本文でもふれていますが、当時、国鉄がSL廃止計画を発表し、全国にSLブームが巻き起こっていた時期でした。

私の母は長野県更埴の稲荷山町の生まれ、小学校低学年時代の私は夏になると母に連れられ、信越線あるいは中央線回りの夜汽車でよく故郷行ったものです。

ただし、当時SLの旅というと、二等車ならばいざ知らず三等車は現在のように空調の利いた客席ではありませんから、トンネルに入る度に窓を閉めたり開けたりの繰り返し、いくら窓を閉めても煙は車内に入り込み、翌朝、下車駅に着く頃には目は真っ赤、顔は煤煙でザラザラ、鼻の穴は真っ黒けという事で電気機関車が採用されるまでは、汽車の旅そのものが快適なものだとは思っていませんでした。 ですから、日本中の汽車の路線は早くオール電化・ディーゼル化にするべきだと思っていたくらいです。

ただ、企画資料として集めたSLに関連する書物を読むと、感動的な話が多々あり、そのどれもが涙なしには読み切れないものが多かったように思います。

国鉄の機関誌的存在といえる「桐と動輪」誌に掲載されていた父と子で力を合わせ事故から列車を守った親子機関士の話や、お座敷列車を発案し季節限定のイベント列車を企画しつつ旅客数拡大に尽力したものの、ある夏の日、駅前広場で雷の直撃を受け亡くなったという会津坂下(ばんげ)駅、駅長氏の話などは、今もこころに残ります。

ところが、そのどれもが感動的ではありますが、何故か暗い話が多いのです。 あの真っ黒で巨大な蒸気機関車のイメージがあるからなのでしょうか、遠くから走る姿を眺めているだけならばいいのですが、機関室内の作業が過酷なだけに、映画ならば画になるとはいえ、連続テレビ番組ではなかなか明るい画にはなりにくい気がしました。

 そんな時に出会ったのがケ100で、これが当企画の原点になったのはご承知の通り。



 これをどのように故郷へ旅をさせるのか…今でも地方ロケは「アゴ」なり「アシ」などのタイアップがきかなければ難しいといわれます。 1時間ものドラマでもそうですから30分ものではおして知るべしというところ。 当時30分のドラマ番組を採算ベースに乗せるには、平均して3日撮影で1日休みというペース。 帯ドラマならばひと月10本の制作をこなさねばならないのが現実でした。

 そこで企画の第一歩は、どうせタイアップをしなければロケが出来ないならば、頭からタイアップの可能な観光地・温泉地を旅することではどうか、機関車や船はなぜか女性名詞でもありますので、発想段階からケー100には『意地悪ばあさん』的正確を付与するつもりもあり、正義の意地悪機関車として悪い奴をこらしめる。 悪人を追いかけてどんな所でも走って行ける豆蒸気機関車であれば…みたいな考えもありました。

 ただし、タイアップが出来るようになるにはやはり知名度が第一の問題でもあります。 そこで前半はおかしな豆蒸気がスクラップの山からよみがえり、町の中で大暴れするような話を展開しつつ、知名度が上がったところで故郷帰りのタイアップ作戦につなげて行く、そんな試案も数案作っていたような覚えもあります。

 結果的にはTBSさんの方針で、タイアップ作戦はまかりならん、温泉旅行などもってのほかということになりましたので、せっかくの出演者・スタッフ一同での、のんびりモードの温泉旅行は幻に終わり、充分な準備期間もないまま走り始めたケー100は、スタッフ・出演者に多大なご苦労をお掛けし、過酷な股旅ロケとなってしまったのはまことに残念でした。



 3年間、番組改編期になると出たり引っ込んだりした企画。

その間に沖縄返還などいろいろと社会状況がかわり、さらに旅の目的地としていた三菱大夕張鉄道の終着駅でもある大夕張炭山駅が、放送が実現し撮影が25話を終えた1973年の7月、三菱大夕張礦業所の閉山と共に機能を失ってしまったなどを考えると、あの年がロケの出来る最後のタイミングであったことは、当時の私には思いもよらぬ事。

この本を書き始めるため資料集めに入った段階で初めて知ったことでしたから、あの年に番組制作が実現したことはまさに奇跡というべきであり、最後のチャンスであったのだと、その幸運さには今もなお感動するばかりなのです。

 ケー100も頭からもう少し快適な運動性能を発揮する劇用車ならば良かったのでしょうが、半年間撮影で使う劇用車が途中で壊れてはいけないと、思いやりのかたまりみたいな厚ベニヤなどの心材が多量に入りすぎ、重すぎて動きのつかない1号車を見た時は泣くに泣けない気持ちでした。

 仕方が無いので2号車は慎重に軽量化を図り運動性能の良いものとし、それを現場に投入した段階で1号車を解体、軽量化したボディを再度架装する。 そんな方針を打ち合わせてる最中に例の火災事故。 泣くに泣けない事故の割には何故か笑ってしまう長かった一日。 もっとも、現在ならばビデオ収録でありデジカメ、写メールなどで事故の事態も瞬時に局・スポンサーに伝わってしまったでしょうから、あの時点ですでに制作続行などは不可能。 アナログ時代の呑気さに我らは感謝しておかねばならないのかもしれません。



 物語の構成としてはあの一日がかなりのページを占め、全体としてはバランスが悪いことおびただしく、これも素人作家の悲しさかと、まずはご笑覧いただければ幸いであると思う次第です。

あの話も入れておけば良かった、この話も…と、想い出は尽きませんが、キリがありませんのでこのあたりであとがきの言葉を締めくらせて戴くことと致します。


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